日本とポーランド 医学が繋ぐ縁

僕の海外進出第一弾は、ポーランドのグダニスクでした。

「日本の伝統医術をまなびたい!!」
という熱い声に応じて、2016年に講習に行ったのをキッカケに、その活動はイタリアのジェノバにも広がってきました。

日本人は、あまりポーランドへ旅行へ行く人も少ないでしょうが、歴史的にも結構繋がりの深い国のひとつです。

その一つが、安永三年(1774年)に刊行された「解体新書」です。

解体新書は、蘭方医の杉田玄白をはじめ、前野良沢や中川淳 彼らが協力して「ターヘル・アナトミア」というオランダ語の解剖学書を、独自に翻訳したものです。

これは1734年に、オランダ人医師のヘラルト・ディクテンがアムステルダムで刊行した書。

その大元は、「ヨハン・アダム・クルムス」が1722年に刊行した書にあります。

ターヘル・アナトミア原書

16世紀(1500年代)。
日本へ渡来したポルトガル人とスペイン人が伝えた医学を「南蛮医学」「南蛮流外科」と呼びます。

これが、日本がヨーロッパ医学と出会った最初だと言われています。
南蛮医学は、「キリシタン医学」「キリシタン外科」とも呼ばれます。

18世紀(1700年代)になると、長崎の出島へドイツやオランダ人商船が出入りするようになります。

慶安二年(1649年)に、オランダからの特使として来日したカスパルは、長崎で医学の伝授を始めました。

その医学は「カスパル流外科」と呼ばれ、多くの日本人が学んだといいます。

これらオランダやドイツの医学を「紅毛流医学」とも呼びます。

カスパル流外科を学んだ「伊良子道牛」は、京の伏見で外科医院を開業し、その流れを汲むのが有名な「華岡青洲」です。

オランダのライデン大学で学んだ「ウィレム・テン・ライネ」は、逆に日本の鍼灸術や、日本産の樟脳をヨーロッパに紹介した人物です。

時代は下りますが、19世紀には「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」が来日します。
長崎で「鳴滝塾」を開き、植物学や医学を教え始めます。

そんな中、彼の望みで鍼灸術を教えたのが「石坂宗哲」です。

石坂宗哲は、鍼の基本を認めた書と、治療道具一式をシーボルトへ寄贈し、それは今もオランダのライデン大学に保存されているそうです。

シーボルトと日本人女性との間に、娘が産まれます。
日本人初の女性産科医といわれる「楠本イネ」です。
時代小説やドラマに時々出てきますね。

話を戻して・・・

1771年、小浜藩医であった杉田玄白らが、彼らが持っていたオランダ語版の「ターヘル・アナトミア」の正確さに感動し、それの翻訳を決意。
約4年の歳月をかけて完成させたのが「解体新書」です。

このターヘル・アナトミアの原著は、ドイツ人医師のヨハン・アダム・クルムスが1772年に「ダンツィヒ」で刊行したものです。

実はこのクルムスは、ドイツではなく隣のポーランド生まれ。

1700年代当時、このあたりは「プロイセン王国」が支配していました。
当時、ドイツ、ポーランド、ロシアは長年の戦争状態にあり、ポーランド王国は滅び、代わりにプロイセンが支配をしていました。

クルムスが「ターヘル・アナトミア」を刊行した「ダンツィヒ」はドイツでの呼び名で、現在はポーランド語で「グダニスク」と呼ばれています!!

僕が縁のあった都市「グダニスク」が、こんな形で繋がっていた事に、つい先日気づかされました。

たしかに当時はドイツ領だったのでしょうが・・・

グダニスクの生徒「オスカー」は、この地で日本の伝統医学を伝えたいと考えています。

これも何かの縁・・・今後も、出来る限りのサポートをしていきます。