鍼を打てる身体

鍼には、「刺す鍼」もあれば「刺さない鍼」もあります。

刺す鍼の場合、そもそも「刺さりやすい形状」をしています。
いかにして「痛みを与えず、かつスムーズに刺さっていく」ことを研究し、工夫されて作られてきた道具です。

刺さって当たり前です。
包丁が切れて当たり前なのと同じです。

その上で、重要なのは「鍼を刺せる身体になっているか?」ということです。

包丁は刃物ですから、引けば切れます。
しかし、どんな素晴らしい包丁でも、使い手が下手ではすぐに切れなくなり、刃こぼれし、錆びついてしまいます。

刃物には「切れ味」があります。
技術にも「技の切れ味」があります。

そこは、目には見えない力が存在しています。

鍼は「刺す」ものですが、言葉としては「打つ」とよく言われます。
「鍼を刺す」ではなく「鍼を打つ」ですね。

蕎麦やうどんも「打つ」と言いますね。
ただ「こねる」のではなく「打つ」という表現に妙味を感じます。

先日、僕の修行での話を少し書きましたが、先生にずっと言われて来たことが「小手先の技術や、道具に逃げるな!なによりも身体を作れ!」でした。

古い鍼医学書を読めば、鍼を持つ手、鍼を打つ身体、医療人の心の在り方の重要性が説かれています。

鍼を「伝統技術」というなら、まずは「伝統と言える身体」が必要です。
東洋医学と言うなら「東洋の身体」が必要です。

その身体に上に、ようやく技と術が乗っかってきます。

治療効果だけを考えれば、そんなものが無くても、鍼を刺して、パルスを流して10分ほど置けば良いのかも知れません。

鍼灸師は「経絡」という言葉をよく使いますが、その殆どが書物からの知識です。
経絡を本当に理解するには「気功」「道家の修行」が必要になります。
気功でなくても、それに近い鍛錬は日本でも重要視されてきました。

現代に産まれた僕らは、現代に適応した身体と精神構造をしていることでしょう。
でも、それさえも無常です。
言葉では「伝統」「現代」と言っても、常に変わって消え去っていきます。

だからこそ、古人の残した言葉や技術、道具を手掛かりに、「鍼が打てる、鍼治療と呼べる身体を手に入れる」ことが大事だと教わってきました。

そういう鍛錬を通して、鍼師の身体を作っていくからこそ、目に見える道具や動きだけではない、その内面がもつ力をアップさせて、だからこそ「切れ味」が冴えてくるのでしょう。

同じ道具、同じ理論、同じ技法を用いても、人によって結果が異なるものです。
それは、道具や理論や技法の問題ではないことが殆どです。

親友の剣術家は、わざと斬れないように刃を落とした日本刀で、太い藁をスパスパ斬って見せてくれました。

道具、技術、そうして内側の力。
精と気と神。

それらが揃ってこその伝統技術ではないかな、と武術や医術の修行で実感させられてきました。

時代が変わり、色んな事が変わっても、それは表面上のもの。
立って歩いて座って寝る。
五感があり感情があり思考があり意識がある。

そこに気づいていくこと。
それが何より重要に思います。

鍼灸寺子屋では、そんな鍼灸師のための「身体作り」を中心に行っています。