治療家は身体づくりが大事

技術というものは『教えても教えられず、学んでも学びとれるものでもない』という壁があります。

壁を乗り越えるには、自分で基礎を積み上げ、考え、工夫し、自分で掴み取るしかありません。

しかし、どうすればいいのか?を知らない人が大半で、だから道を諦めるか、勘違いした独創に走る人が多いように思います。

僕は、理論や技術を一切教えない先生のもとで修行を積んだことと、伝統気功を学んでいるおかげで「どうすれば良いか」は知っています。

人が新しい技能を獲得する時、どうしてきたのか?を思い出せばわかると思います。
赤ちゃんが立って歩けるようになり、やがて初めて泳げるようになり、自転車に乗れるようになるのと同じです。

例えば「気功」は、人間としての基礎力、能力、機能、そういうものをレベルアップさせるものです。
あとは、それを続けて自らの足で高い壁を乗り越えられるかどうか?だけです。

江戸時代の鍼医師の教えにこうあります。

『能々此の理をわきまへ、手に得、心に知り、あとは自由に術の至るまで』

僕はこれが大好きです。

他の流派にはこうあります。
『事(わざ)に無心にて心に無事なれば、自然に虚にして霊空にして妙。
挽(ひ)かぬ弓、放さぬ弓にて射るときは、中(あたら)ず、しかも外さざりけり』

理論は理論としてしっかり学び、技は技として体得し、しかしそれらに拘らず、物事の本質を捉え、感じるままにやれ。
そう教わってきました。

これらは、僕の武術観とリンクしています。

頭で理解しても体で、理解しなきゃ絵に描いた餅。
何事も、実地訓練が大切なのは当たり前ですね。

以前「技術力アップには身体作りが必要」というコラムを書きました。

その中で、

鍛錬によって自由に動く体を作っていかなければならない。
みんな剣でも体術でも技の稽古さえしていれば体が出来てくると思っているが本当はそうじゃないのだね。
別に体を作っていかなければならない。

と書きました。
これは、ある武術家の言葉だそうです。

技を覚えたところで、それが使えるとは限りません。
それが使える身体が大事です。

兵法者が、千変万化の太刀を繰り出し、あらゆる相手に対応出来る体勢を整えている状態を『円相』と言います。
全ては常に変化をしています。
だから相手に変化よって自在に転化出来るようにしておく教えです。

そのためには無心であれと言います。
無心と放心は違い、全神経を相手の動作に向け続け、観察をします。
しかし心中で『どう出よう』『このように懸かろう』と言う思惑を一切持たない状態だと言います。

様々な雑念を捨て、本来無垢の心をもって敵にあたれば、妙なる技が表れる。
わずかに吹く風の音を聞き取り、微かに耳につく水の流れの音を聞く。
それ程まで静かに研ぎ澄ませた心をもって敵に立ち向かう。

月が水に影を映すのは迅速だが、月は遥か遠い。
しかし雲間から出れば、たちまち影は水に映る。
人の心に物事が映るのも同じである。
『心法に形なく、十方に通貫す。水中の月、鏡裏の像』

武術の教えと鍼術の教え。
どちらも人がする事です。
何も違いはありませんね。

やはり僕の医術は武術が基礎なんだと再認識しています。

そうして、医と武という異なる車輪をつなぐ軸に「気功」があります。
もっと言えば、すべての中心が気功で、医も武もそこから派生したものです。

そういうことを踏まえて、基礎の身体づくりを和氣香風のレッスンで伝えています。

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